福井で経験したこと

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Ishdorj Bayarmaa
(イシドルジ バヤルマ)

 みなさんこんにちは。かたいけの。?

 ここまで来るのはちびたかったやろの。ありがとうの。

 それでは今から私の話に耳を傾けてくださいね。

 私は今から6年前の12月1日に始めて日本に来ました。それまでは生まれも育ちもモンゴルでした。

 みなさんはモンゴルってどんな国かご存知でしょうか?・・・

 まさに広い草原そこに住んでいる人々が浮かんできますよね。だけど私がいたウラーンバートル市は人口的に福井くらいだけど、もっとゴミゴミしていますよ。当時、私は大学のグループで、民族舞踊と社交ダンスを習っていました。なぜ日本に来たかというと、所属していたグループが日本にモンゴル文化を紹介することになったのです。

 最初はサッポロに着きました。第一印象は「サッポロって暖かいんだな。」と思いました。12月はモンゴルでー30℃の世界ですが、サッポロはまだー2℃くらいでした。私は毛皮の長靴をはいてモコモコの服装で航空に降りたら、女の人がサンダルをはいていたんですよ〜。けなるいのお〜

 さて、その後ですが北海道でどういうわけか福井の人とめぐりあったんです。で、結婚ということになりました。

 私は福井の大野市で暮らすことになりました。始めて大野に来たころ遠い所が見たくて毎日のように大野城がある亀山に登りました。でも、山の木が深く茂っていて見えませんでした。広い草原をいつも見ていた私は胸が詰まるような圧迫感を感じ、このままやっていけるか、とても不安になりました。

 そこで早く働きたいと思いました。大野や福井の安定所に出かけどんな仕事でもよいからと仕事を探しました。でも、日本語もまだあまりうまくなかったので思うような仕事は見つかりませんでした。

 私は早く日本語を覚えて好きな事を仕事にしたいと考えました。

 そこで福井県国際交流会館に来て日本語を習い始めました。そうしているうちに機会があってモンゴルの紹介を頼まれたのです。

 それは福井に来てから半年後のことでした。

 その時は はじめてにしては、よかったと思います。日本に来る前は人前で踊るのが好きなだけで話すことはまったく苦手な私でしたが、やった〜私はできるんだ〜という大きな励みになりました。

 そしてその話のときに誰とあったと思いますか?日本人の山崎先生と、モンゴル人のえんけさんと知り合いました。私の日本語の先生が連れて来た山崎先生はモンゴルに何回か行かれて、モンゴルの自然が大好きな人です。今はモンゴル人の私たちと福井モンゴル友の会を設立し、重要な役割をしてくださっています。

 それから、どこから見てもモンゴル人らしい顔している女性が、私の方に近づいてきて私の目を眺めて「あなたはモンゴル人なの?」モンゴル語では「TA Mongol hunuu?」とものすごい福井弁のモンゴル語で聞いてきたんですね。そのえんけさんはその時から私の親友で姉のような存在になっています。

 そして、第2回目の話はある小学校ですることになりました。最初の話のときに自信がついた私は話す内容なんってちっともしんぱいしませんでした。着る服を何回か変えてかがみの前で自分の顔をみてかわいい顔になったかな というような心配ばかりしてました。

 そして、小学校に着いてクラスに入ったとたんに、会場はシーンと、100人の子供の200個の目が私の方をジーっと見つめました。その時、頭が真っ白になり、あれもこれも忘れてしまい、気がついたら子供達に「イシドルジバヤルマ」自分の名前をモンゴル語で何度も叫ばせたことをよく覚えています。おまけにNHKの撮影もあって、一生忘れられない恥ずかしい思い出になりましたが、あの時よい経験したなと今は思いますね。

 こうして福井での私の生活は少しずつ楽しくなってきました。いろいろなところからモンゴルの話をしてほしいと依頼がくるようになりました。今でも小学校に行く機会がよくあります。行ったあとで子供達から来る感想のお手紙はとっても楽しみです。

 なぜ同じことを聞いているのに一人ひとりの発想が違うのだろう。

 例えば、ある子は私の衣装に注目しているし、ある子はモンゴルの人口について、そしてある子は遊牧民やゲームについてとか・・・興味を持って感想を書いて来てくれます。福井の子供って人なつこいんやのぉ〜と思いました。いきなり「好きな男性はどんな人」とかプライバシーまで聞かれてしまいました。そして子供たちも劇や紙芝居など日本の文化を発表してくれます。そのようにお互いに交流しあい心が通じ合うことはてともうれしいです。

 そしてそのころフィットネスクラブでトレーニング、エアロビックスもはじめました。フィットネスの新しい世界が私の前にドンドン広がってきました。実は私の父も母も、教員でした。私にとって人前で、すばらしい話が出来る父はあこがれの存在でした。幼いころから父のような先生になりたい!と思っていました。私は大好きな福井のあるフィットネスクラブでラテンダンスのレッスンを受けたことがきっかけで私はこの福井で自分がどういう仕事をするべきがはっきりとわかったんです。

 私はエアロビクスインストラクターになって、皆にそれを教えることで夢をかなえたんです。なくなった父も、きっと私のことを見てくれていると思います。人を健康にする、元気にする、そして自分も元気を頂く毎日がすばらしい、まさに天職です。

 私は福井に来て、この福井でたくさんの人と出会いました。多くの人に支えられながら、人に必要とされる人生を送ることの大切さその日々を感じています。古里のモンゴルが一番なのですが、私を変えて、ここまで成長させてくれた福井も2番目の私の古里なんです。福井県、福井人、福井弁がひっでぇ〜好きなんやって。

 最後まで聞いてくださってありがとうございました。

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